湯浅町に残っている郷土史をまとめた昭和42年湯浅町誌から抜粋しました。原文のまま記載します。
丁寧に良く調べてられていてありがたいです。
ただ約60年前と現在で少し解釈が変わっている箇所について考えてみました。それでは以下
丁寧に良く調べてられていてありがたいです。
ただ約60年前と現在で少し解釈が変わっている箇所について考えてみました。それでは以下
寺院(総論)
1.湯浅の古寺について
有田に現存する古寺の中で、今日たとえ浄土宗なり真宗なりに宗派換えしているものがあってもその多くはもと真言宗であったことは、これらは往時高野山の金剛峰寺の配下に属していたからである。
湯浅における仏教寺院もまた例外ではあり得ない。
『勝楽寺』の前身『寂楽寺』のごときまたは『満願寺』のごとき、又寺名のみ伝わってその寺跡さえ明らかにしがたい『西台寺』 『護念寺』のごときも真言宗であっただろうし、
山田小学校所在地、堂山前にあった寺堂のごとき、そこから出土する古瓦には、平安時代の物のあるのを見ても、真言宗の寺院が ここにあったことをいなみ得ない。
なおまた深専寺の記録によると、現寺域は真言宗の海雲院の跡であるという。しかしこれらの古い歴史や古い伝説をもっている寺院は、いつの時代にか退転して、今日真言宗として現存するものは、満願寺・施無畏寺の二カ寺である。
湯浅の古寺中、平安時代末から鎌倉時代にかけて、大きく文献上に現われてくるものに、『寂楽寺』がある。『寂楽寺』の名は高野山古文書の中にしばしば現われてくるが、今の『勝楽寺』の前身であることは、既に何人も疑わないところである。『寂楽寺』の草創については、右大弁【平惟仲】が京都の「法性寺」の末寺として建立したと伝えられている。
同寺が湯浅氏と深い関係があったことから、強大な勢力を持っていた。
奥有田の阿氐河荘の所属について、高野山、寂楽寺両寺の間に、数十年にわたって抗争を続けたのも、『寂楽寺』の当時の強権を想察するに足る。しかるに湯浅氏の没落とともに寺運はようやく衰え、江戸時代にいたりついに 廃寺同様となった。
京都醍醐寺に現存する金堂及大門は、慶長三年豊臣秀吉によって紀伊湯浅より移されたとある。それは当時の模様から『寂楽寺』より移されたものと推定されるが満願寺から移されたとも云われている。いずれにしても確たる資料がない。
享保十一年(一七二六) に深専寺第十八世の住職 俊栄上人がこれを再興した。
旧指定国宝仏八体は藤原鎌倉時代盛時の片影である。寂楽寺とほぼ同時代に創立されたと思われるが真言宗満願寺は、後白河院の勅願所として建立されたと伝えている。
寂楽寺の伽藍と共に、満願寺山から勝楽寺台地にかけて、堂塔の甍を並べた壮大な真言寺院の景観が想像される。
しかし室町時代中期にいたって、浄土宗および浄土真宗の紀州南断により、寛正三年(一四六二) 明秀上人は浄土宗深専寺を建立し、
文明八年(一四七六) 道宗上人は浄土真宗仙光寺を建立した。
次いで浄土真宗真楽寺・ 本勝寺の建立があり、福蔵寺の衣奈からの移転があって、民衆教化を目的として鎌倉時代に生まれた新宗派浄土宗、浄土真宗二派の宗勢がにわかに増大して、貴族宗派と言われた平安時代の旧宗派真言宗の信徒が激減した。
わが国の仏教が奈良平安時代から江戸時代末にいたるまで、国家皇室公卿武家らの権勢に依存して、久しく安易に馴れていた。その間隙に乗じて、幕末明治中期にかけて、天理教 金光教・黒住教などの新興宗教が相ついで現われ、庶民の間に多くの信徒を得た。かくして現代の宗教界を通観すると、仏教各宗派はようやく一般民衆から遊離して行く感がある。 以上原文のまま
研究ノート
さて昭和42年編纂時点で上文の下線部分「寂楽寺は勝楽寺の前身であること・・・・」と書いていますが『寂楽寺』はどこに有ったのか??晩年解釈が変わっています。この後に出てくるのが阿氐河荘(有田川町)の百姓カナ申状「ミミヲキリ、ハナヲソギ」で有名な・・荘園の所有権の話になってくるのですがこの辺りは研究されつくされていて調べてみるのも面白いですね。以前調べたものをAIにまとめて貰い見やすくしたHPを3つ下にリンクしておきます。(それでは白方宿所の場所は何処よ?満願寺の話は(続風土紀)?となりますが高橋修氏の考察含めて又書いてみます)
管理者 籔野博孝