本書が明らかにしたこと
黒田氏の研究は、史料の緻密な読解と多角的なアプローチにより、多くの新発見をもたらしました。ここでは、その中でも特に重要な3つの貢献、「逐条解釈」「文字論と作成主体」「文書形態論」について見ていきましょう。
📜 逐条解釈の新発見
国語学の知見を取り入れ、申状の一言一句を再検討。従来の解釈を覆す発見が、百姓たちの具体的な訴えを鮮明にしました。以下の項目をクリックして詳細をご覧ください。
従来の「鎮め」ではなく、「為集め(とり集める)」と解釈。地頭による不当な徴収行為への反発を示唆します。
国語学的分析から「供餉」ではなく「供給」と確定。百姓が地頭の不当な供給要求に異議を唱えた経済闘争の側面を明らかにしました。
単なる肉刑ではなく、不服従の百姓に対する「妻子質取宣言」と解釈。背景にある村落の構造的問題を浮き彫りにしました。
✍️ 文字論と作成主体
なぜ片仮名で書かれたのか?誰が書いたのか?という根源的な問いに、新たな視点を提示しました。
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文字論の新説: 網野善彦氏の「口頭性」説に対し、当時の文字習得順序(片仮名→平仮名→漢字)から、書き手の「低レベルな識字力」によるものと分析。
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作成主体の特定: 従来の「上層百姓」説から一歩進め、杣業指揮者である「番頭」が執筆者であるという「番頭作成説」を提唱。より具体的な人物像を特定しました。
✒️ 文書形態論の深化
申状そのものを「モノ」として分析し、製作過程の謎に迫りました。
墨色の違いを発見
第一条〜第九条
(通常の墨色)
第一〇条以降
(薄い墨色)
この物理的な証拠は、第九条以降が後から追記された可能性を示唆します。これは、申状が一度に書かれたものではなく、状況の変化に応じて書き足された、ダイナミックな文書であったことを物語っています。
学説史の変遷を視る
片仮名書申状をめぐっては、黒田氏以前にも複数の研究者によって重要な説が提唱されてきました。ここでは、申状の「作成主体」と「文書様式」に関する主要な学説を比較し、黒田説の画期性を探ります。チャートの凡例をクリックすると、特定の学説の表示/非表示を切り替えられます。
仲村説
雑掌(荘園管理人)である従蓮が百姓を指導して作成させたという説。
河野説
村落内の「上層百姓」が主体的に作成したと主張。ただし、文書は正式な訴状ではなく「被害報告書」と位置づけた。
黒田説
作成主体を「番頭」と具体的に特定し、文書を「百姓目安」という正式な「訴訟文書」として再評価した。
批判的検討と今後の研究課題
黒田氏の研究は画期的ですが、同時に新たな問いも生み出しました。批評家たちが提示した論点は、この研究をさらに深化させるための重要な道標です。以下のタブをクリックして、各課題の詳細をご覧ください。
課題1: 村落像の時代的位置付け
本書で描かれた村落像は、高い政治性を持つ後期村落への「過渡段階」と見なされがちです。しかし、中世前期村落が持つ「固有の政治性」とは何だったのかを、より明確に論じる必要があります。