管理者の挨拶
今回はより深堀りして気質から「民族(民俗)」という題目で、100年以上前に書かれた有田郡の民俗について紹介します。祭礼と並行して性風俗も問題になり、古い慣習に取締が強化されたこと、そして江戸時代から続いていたであろう庶民の生活について、原文と現代語訳を並べて掲載します。長文のため原文・現代語訳は折りたたみ機能を付けました。
テキストの原文
現代文要約
有田郡の人々はもともと温厚で勤勉で、地域ごとに独自の気質や習慣を育んだ。江戸期には徳川氏の庇護で平和が長く続き、一揆や暴動はほとんどなかった。しかし安定は人心の弛緩を招き、江戸末期には男女関係の乱れ、堕胎、賭博、賄賂といった悪習が広がった。村ごとに純良な風俗が残る所もあったが少数派であった。 一方で義理人情は厚く、歌や共同作業を通じてのどかで詩情ある暮らしも営まれていた。多くの人は外の世界を知らず、明治維新の大変革も実感しないまま過ごした。明治以降、政府の取締や教育の普及で悪習は衰えたが、同時に素朴で快活な気風も失われ、現代の人々は陰鬱で活力に欠けると評される。 郡全体としてはなお過渡期にあり、新旧の風俗が併存して不調和を示している。これは都会と隔絶せず、かといって都会化しきれないという中途半端な立地事情に由来している。
現代語訳全文
のちに徳川氏がこの地を治めると、産業振興に力を入れて庇護も厚く、人びとはその恩恵に浴して二百年の太平を謳歌しました。統治の基本は「民をして因らしむべし、知らしむべからず(従わせればよく、知恵づけるな)」という考えで、郡民は長く素朴で温良な気風を保ちました。実際、この郡で一揆や暴動に類する史実はきわめて少なく、近世では嘉永六年(1853)に蜜柑の御用買い付けに反対した北有田の一部が示威に及び、賛成派の豪家数戸の家屋を壊したこと、また明治17~18年ごろに吉原村の一部住民が役場に対して不穏な動きを見せたこと、湯浅の漁民が漁場をめぐり隣郡の漁民と争ったこと――およそ二、三件が伝わるのみです。若衆組のような集団は古くからあり、隣村との揉め事も皆無ではなかったものの、多くは男女関係への慣習的な制裁や、祭礼での神輿に供奉する「若衆馬(わかしゅうま)」の順番をめぐる口論程度で、激しい争闘はまれでした。
しかし平穏が長く続いたことは、かえって人心を沈滞させ、腐敗させ、さまざまな悪しき慣行を生み、気づかぬうちに民を堕落させました。徳川末期に近い時代の風俗には、忌むべきものが少なくありませんでした。
男女の野合・姦通はたいへん盛んに行われ、それを公言して恥じないどころか、村落共同体の中で誇るような有り様でした。夜仕事を終えた若者が卑猥な里歌をうたいながら女性のもとへ通い、ときには山村の一部で女性が男性の家に忍ぶことさえありました。養源寺の初甲子、西嶺の十夜参り、岩坂観音、日光社のお籠り、各村の盆踊りなどは、青春の男女が交わる絶好の機会となり、たいへんな雑踏で賑わいました。良家の子女もそれをいとわず、家庭も深くは咎めませんでした。
その結果として堕胎の悪習がともない、この非倫理的な行為はほとんど公然の秘密として行われました。未婚女性が私生児の扱いに苦しむだけでなく、貧家はもちろん、資産や地位をもつ家の妻女でさえ、経済的な理由から家族の増加を抑えるために堕胎に踏み切る者が少なくなかったのです。天保前後における郡の人口の月平均増加が四人三~四分(約4.3人)に過ぎなかったのは、主としてこれが原因だと思われます。
もっとも、むらによっては風俗が純良で、この悪風に染まらなかった所もありました(糸川などがその一例で、天保前後の一戸あたり平均人口は五人五~六分=約5.5人)。とはいえ、そうした地域は比較的まれでした。
賭博や富くじは、ほとんど社会的娯楽として老若男女を問わず広く行われ、正月などは日夜寝食を忘れて勝負に熱中しました。僧侶、神官、寺子屋の師匠の中にも耽る者が少なからずいました。社会もそれをとくに咎めませんでした。
さらに嘆かわしいのは賄賂が公然と横行したことです。代官や手代から、庄屋や番太に至るまで、賄賂なしには動かず、賄賂さえあればどんな不正も黙認され、無理も通りました。これを当時の人びとは梃子(てこ)にたとえ、方言では「てこ」または「てんない」とも言いました。語源は詳らかではありません。いずれにせよ、こうした背徳も習慣化すると、行う側も罪悪と自覚せず「役得」と心得て、上は上司にへつらい下を虐げ、下民は「そういうものだ」と諦めて気にも留めませんでした。年中行事を機械的かつ真面目に繰り返し、昼夜働きづめで、粗末な家に住み粗衣粗食に甘んじ、向上心は乏しく、人権が何かなど考えもしない――そんな有様でした。
当時は生活水準が低い分、暮らしの余裕は今日とは比べものになりません。冠婚葬祭では飲食が盛んで、酔って道で転び、そのまま一夜を明かす者も珍しくはありませんでした。とはいえ村落の人情は厚く、血縁の情も濃く、義理を重んじました。伝染病患者が出たときに、もし同族の者が忌避するような態度をとれば、村中の人がそろって非難したと言います。
人びとは老いも若きも歌を好み、米を搗けば米搗き歌、臼を引けば臼引き歌、そのほか田植え歌、麦打ち歌など――遊びにも仕事にも、いつも歌がありました。農家の若者たちはそれを学ぶために一時身をやつすのが常でした。男女の一隊が手織りの手拭いをかぶり、自作の手指(てさし=手甲)をつけ、茶山節を唱和しながら楽しげに茶を摘み、みかんの季節には畑のあちこちで歌声が朗らかに響きました。例えば、
「蜜柑ほぞぬけ たもとに入れて 晩にお出でよ 目さましに」
「江戸の問屋の佐平さん来たら 土産もらおか 江戸絹を」
「有田よいとこ 蜜柑どこ 茶どこ 娘やりたや 聟ほしや」
「沖の暗いのに 白帆が見ゆる あれは紀の国 みかん船」
など、檜島節もおもしろく聞こえ、世の辛苦など知らぬかのようにのどかで、どこか詩情に富んでいました。要するに、飲酒・女色・賭博・放歌――それらが彼らの一日の労を休め、明日の労働力を養う唯一の慰めだったのです。多くは有田の小さな世界に生まれ、その小さな世界で生涯を終えました。
「泣くな嘆くな 江戸でさえなけりゃ 五里や六里の 若山へ」
「江戸や佐渡へと 子をやる親は 親でござらぬ かたき同士」
と歌って、ついに天下の広さを知ることはありませんでした。黒船来航も、尊攘論争も、大政奉還も、維新の偉業も、夢のうちに過ぎ去り、時勢の移り変わりを知らぬまま、ぼんやりと太平の空気のなかを漂いつつ明治の新時代に入ったのです。
明治二年に有田民政局が設けられると、まず堕胎の不道徳を説き、同時に積極的に摘発して「百たたき」の刑に処したため、悪習は一時ぐっと減りました。しかし根絶には至りませんでした。のちに警察署ができると、盆踊りを一時厳禁し、賭博犯を厳罰に処すようになり、こうした悪風は自然と薄れていきました。とくに近年は教育の効果が青年に顕著に現れ、法律・宗教・社会的制裁と相まって、面目を一新し、長年の積弊をほぼ一掃できました。
しかし同時に、それに代わる新しい何かを与えたわけでもなく、悪習を打ち破るとともに良い風俗まで壊してしまったのは遺憾です。明治以前の郡民は質実で快活で、士分による抑圧下にありながらも、わりあい精神の自由があり、天真を発揮して無邪気でした。これに対し現代の都会人はやや偽善的で陰鬱で、自由な世にありながら精神的な束縛を感じ、天真を十分に出せず、何となく元気が上がらない――とりわけ青年にその傾向が見られます。
さらに郡全体を見れば、まだ調和の取れた一定の民俗を形成するには至っておらず、いまなお混沌とした過渡期にあります。新しい思潮は、ことあるごとに旧習・旧慣と衝突し、衣食住や道具など日常のあらゆる場面で、不調和な二つの姿が奇妙に併存しています。わが郡は辺地とはいえ、都会とまったく隔絶しているわけでもなく、交通はほどほどにある――さりとて都会化したとも言えない――その中途半端さが背景にあるのでしょう。
あとがき
昔の暮らしが見えてきますね。情報や娯楽の少ない田舎の地域の生活、黒船来航からの若者の姿が想像できます。