栖原角兵衛家は、江戸時代から明治にかけて日本の北方開拓に多大な功績を残した商人一族であり、代々の当主は屋号「栖原屋」と名乗り、「角兵衛」の名を襲名した。その本姓は「北村」であり、一族の系譜は武家の名門、源義家の子孫にまで遡ると伝えられている。伝承によれば、北村家は摂津国川辺郡北村郷(現在の大阪府伊丹市北村)を領有し、その地名を氏としたとされる。
この武家の由緒は、一介の漁民から出発した栖原家が、単なる地方の商人に留まらず、広範な事業展開を可能にした背景を読み解く上で重要な手掛かりとなる。武家の末裔としての家伝は、一族に開拓精神やリスクを厭わない気質を醸成し、後の大胆な事業拡大への原動力となった可能性が考えられる。武士が京で起きた兵乱を避けて紀伊国へ隠遁し、最終的に帰農するという歴史の流れは、安定した生活を求めた変化であったが、この過程で培われた自立の精神や、故郷を離れて新たな土地で生計を立てる決断力は、後に房総や蝦夷地へと活動の場を広げる事業家としての資質と無関係ではないだろう。
しかし、一族の本姓については、一部の史料に「中尾」と記されているという異説も存在する。本報告では、複数の資料が「北村」姓の由来に言及している点、また「北村家略伝」という家伝が存在することから、北村家由来説を主要な論点として論を進める。このような学術的な相違点の存在は、詳細な史料が失われている近世商人の歴史研究において、多角的な視点を持つことの重要性を示している。
北村家は、武家の系譜をたどった後、紀伊国有田郡吉川村を経て、元和5年(1619年)に茂俊(後の初代角兵衛)が栖原村に移住した。当初は農業に従事していた茂俊であったが、やがて栖原の漁民たちが関東出漁で多大な利益を上げている様子を見て、自らも漁業への転身を決断する。この決断は、栖原家の歴史における決定的な転換点となった。
この地への定住を機に、一族は屋号を「栖原屋」とし、代々当主が「角兵衛」を襲名する伝統が確立された。これは、故郷の地名が彼らの事業アイデンティティの中心となり、その後の広範な事業活動においても、精神的なルーツを故郷に置き続ける強い意志を示している。
初代角兵衛茂俊は、事業転身後、上総国天羽郡萩生村とその近海に漁場を開拓し、「鯛桂網(たいかつらあみ)」経営を展開した。この房総での漁業は、栖原家に多大な利益をもたらし、その後の事業拡大に必要な潤沢な資本と経営ノウハウを蓄積する基盤を築き上げた。房総の地で成功を収めた栖原家は、その網株を担保に江戸での事業拡大を進めるなど、事業規模を拡大していくこととなる。
初代が築いた漁業事業は、二代目角兵衛俊興の時代にさらなる展開を見せる。二代目は漁業経営を続ける一方で、元禄期には江戸の深川に薪炭・材木問屋を開設した。これは、単一事業に依存することなく、当時の経済の中心地であった江戸での商機を捉え、事業の安定性を高めるための戦略的な多角化であった。
三代目角兵衛茂延の時代には、さらに大胆な事業転換が行われた。この時期、栖原家は漁業から撤退し、材木商を事業の中心としたのである。江戸幕府による城下町の整備や都市人口の増加に伴い、木材需要が急増する時代背景を的確に捉えた、経営者としての優れた先見性を示す動きであった。この材木事業は、宝暦年間には陸奥国下北の大畑村にまで進出し、南部ヒバ材を江戸や大坂に輸送・販売する一大事業へと発展した。この東北地方への進出は、後に蝦夷地へと活動の場を広げるための重要な足掛かりとなった。なお、大畑店はその後、天明12年(1783年)に廃止されたことが記録されている。
三代目が漁業から撤退したにもかかわらず、五代目角兵衛茂勝は、明和2年(1765年)に再び漁業経営へと舵を切る。活動の舞台は、競争が激化する本州市場ではなく、未開の地であった蝦夷地松前である。この地で小松前町に支店を開設し、漁業を再開するとともに、蝦夷地と本州間の交易を手がけるようになった。
この時期、近世初期から蝦夷地交易を担ってきた近江商人に代わり、栖原屋や伊達林右衛門らといった新興商人が台頭し始めた。彼らは松前藩に接近し、やがて蝦夷地における場所請負制度を担う主要な存在へと成長していく。五代目の蝦夷地進出は、単なる漁業の再開ではなく、未開発のフロンティアにおける資源開発と貿易を統括する「場所請負人」という、より大きな事業体への脱皮を意図した、戦略的な転換であったと解釈できる。
栖原家の事業は、六代目角兵衛茂則の時代に最盛期を迎える。天明6年(1786年)、松前藩から天塩郡一円、天売嶋、焼尻島の漁場請負を命じられ、翌年には留萌郡、苫前郡の漁場全部を請け負った。これらの広大な請負地は、実質的に明治初期まで栖原家の重要な経営基盤であり続け、彼らが蝦夷地における支配的な商業勢力として確立したことを物語っている。
この成功の波に乗じて、事業はさらに拡大した。七代目角兵衛信義は、文化3年(1806年)に石狩地方の5場所を請け負い、初代伊達林右衛門とともに北蝦夷地(樺太)の漁場開拓にも着手。八代目角兵衛茂信は、天保12年(1841年)に伊達林右衛門と協力して択捉島の漁場経営にも参入し、北海道内陸部から樺太、千島列島へと事業範囲を広げ、北洋漁業開発の先駆者としての地位を確立した。
世代 | 当主名(本姓) | 生没年(西暦) | 主要な事業活動・功績 | 特記事項 |
---|---|---|---|---|
初代 | 茂俊(北村) | 1601-1673 | 紀伊国栖原村で漁業創業。房総半島で鯛桂網経営により成功。 | 紀伊国から房総へ進出。 |
二代目 | 俊興(北村) | 1644-1706 | 漁業経営と並行し、江戸深川で薪炭・木材問屋を開設。 | 事業の多角化に着手。 |
三代目 | 茂延(北村) | 1685-1734 | 漁業から撤退し材木商に特化。陸奥国下北に支店を開設。 | 事業の戦略的転換。 |
四代目 | 不詳 | 不詳 | 不詳。 | |
五代目 | 茂勝(北村) | 1731-1793 | 明和2年(1765年)に蝦夷地松前へ進出し、漁業を再開。 | 場所請負人制度への足掛かり。 |
六代目 | 茂則(北村) | 1753-1817 | 天明6年(1786年)に天塩、翌年に留萌・苫前を請け負う。 | 本格的な場所請負人として隆盛。 |
七代目 | 信義(北村) | 1780-1851 | 蝦夷地石狩地方や北蝦夷地(樺太)の漁場を開拓。 | 北方資源開発の拡大。 |
八代目 | 茂信(北村) | 1808-1854 | 伊達林右衛門と択捉島の漁場経営を請け負う。 | 蝦夷地における支配的地位を確立。 |
九代目 | 茂寿(北村) | 1812-1857 | 松前藩の沖口収納取扱方となる。 | 藩との関係強化。 |
十代目 | 寧幹(北村) | 1836-1918 | 明治14年(1881年)に北村から栖原に改姓。明治28年(1895年)に事業を三井物産に委託。 | 栖原屋の事業終焉と近代化。 |
請負年(元号/西暦) | 請負場所 | 請負人(当主名) |
---|---|---|
天明6年(1786年) | 天塩郡一円、天売嶋、焼尻島 | 六代目 茂則 |
天明7年(1787年) | 留萌郡、苫前郡 | 六代目 茂則 |
文化3年(1806年) | 石狩地方の5場所(トイハラ、ハッシヤフなど) | 七代目 信義 |
文化7年(1810年) | 北蝦夷地(樺太)の漁場 | 七代目 信義、初代伊達林右衛門 |
天保12年(1841年) | 択捉島の漁場 | 八代目 茂信、三代伊達林右衛門 |
栖原家が場所請負人として行った事業は、単なる交易や漁業にとどまらなかった。六代目茂則は、特に留萌の開発に尽力し、「芥蒼を拓き、荊棘を刈り、丘を削り、沢を埋め、道路を通じ、航路を拓く」と記録されるほど、インフラ整備を伴う大規模な開拓事業を展開した。この功績は、現代の留萌の礎を築いたものとして高く評価されている。
また、蝦夷地経営にあたっては、現地に支配人を配置し、アイヌの人々を労働力として使う必要があった。このため、アイヌの人々の使役に腐心したことがうかがえる。この側面は、当時の場所請負人経営が、単なる資源開発ではなく、異文化との交流や労働力管理という、複雑な社会経済システムの上に成り立っていたことを示している。
栖原家の成功は、単に商業的な才覚だけでなく、松前藩、そして幕府といった中央権力との強固な連携によっても支えられていた。彼らは場所請負人として、藩や幕府の財政を支える「御用達」として機能したのである。
蝦夷地が幕府直轄地となった文化4年(1807年)以降も、栖原屋は幕府から漁場請負を命じられるなど、その経営の根幹に深く関わっていった。さらに、函館付近の上山村の開墾や、ロシアの侵入に備えた防備への協力など、国家的な要請にも応える有力者として振る舞った。このような公的な役割を担うことは、事業の安定性を確保し、新たな利権を獲得するための政治的な活動であり、時代の変化と権力の意向を読み解き、自社の利益を最大化する経営手腕を示している。
江戸時代を通じて隆盛を誇った栖原家も、明治時代に入ると、旧来の事業モデルの終焉という大きな変化に直面する。明治新政府による近代化政策の下、場所請負制度は廃止され、新たな事業環境への適応が迫られた。十代目角兵衛寧幹の時代には、天塩・天売・焼尻・苫前・留萌といった主要な請負地が庄内藩領となった後も、引き続き経営を任されるなど、移行期においてもその影響力を保持していたものの、旧来の商法を継続することは困難な時代となっていった。
明治28年(1895年)、十代目角兵衛寧幹は、栖原屋の事業を三井物産に委託し、300年近く続いた歴史に終止符を打った。この事業終焉は、一般に「没落」や「倒産」と表現されることがある。しかし、当時の詳細な経営史料が戦後の混乱などで散逸・焼却されたため、その背景は断片的にしか把握できないのが現状である。
この事業の終焉を単なる経済的破綻と捉えるのは短絡的かもしれない。場所請負制度という前近代的なビジネスモデルが歴史的役割を終える中で、十代目寧幹が事業を当時最先端の近代的な企業である三井物産に引き継いだことは、合理的な事業整理であった可能性が高い。これは、時代の流れを理解し、事業の「計画的な終焉」を選択した結果であり、財政的な破綻とは異なる、戦略的な経営判断であったと解釈すべきだろう。
栖原家は、房総や蝦夷地へと活動の場を広げた後も、故郷である和歌山県湯浅町栖原に本宅を置き続けた。この本宅は、彼らの成功の証であり、物理的な拠点としてだけでなく、精神的なルーツを常に故郷に置いていたことを物語っている。
故郷への貢献も積極的であった。栖原坂の改修や、安政の大地震・津波からの復興支援など、地域社会への投資を惜しまなかった。これは、事業で得た富を故郷に還元するという、故郷との深い結びつきを示す証左である。
現在も、湯浅町栖原には栖原家の隆盛を物語る貴重な遺産が残されている。「栖原角兵衛屋敷土蔵」(江戸時代後期、1830-1867年築)は、その経済力を示す物理的な証拠であり、2004年には国の登録有形文化財に登録された。この土蔵は、切妻造りの本瓦葺きで、外壁は白漆喰塗、腰は縦羽目板張りという、当時の豪商の屋敷建築の特徴を今に伝えている。
栖原角兵衛家の歴史は、初代茂俊が紀伊国栖原村で漁業を創業し、房総出漁で成功を収めたことから始まる。二代目以降は江戸での材木問屋開設、陸奥国下北への進出と、事業の多角化と地理的拡大を進めた。そして、五代目以降の蝦夷地進出により、場所請負人として日本の北方開拓を主導する存在へと成長を遂げた。この300年にわたる歴史は、単一の事業に固執することなく、漁業、材木、交易、開拓と、時代と場所に応じて事業モデルを大胆に転換させてきた「多角化」と「地理的拡大」の歴史であった。
栖原角兵衛家は、故郷である紀伊国栖原との強いつながりを持ち続けながら、房総から江戸、そして蝦夷地へと、その事業領域を拡大した稀有な存在であった。彼らは、松前藩や幕府の政策と密接に連携し、北方資源開発という国家的なプロジェクトの一翼を担うことで、日本の近代化の礎を築いた「北方開拓の先駆者」として、非常に大きな歴史的意義を持つ。北海道神宮開拓神社の祭神37柱に名を連ねるという事実は、彼らの功績が現代に至るまで高く評価されている証左である。