近世の湯浅町内の浴場状況(昭和47年現在)
提供された資料は、昭和47年時点での和歌山県湯浅町およびその周辺の公衆浴場の歴史と状況を記したものです。
湯浅町内の公衆浴場
- 土岐氏の薬湯:湯浅小学校近くにあった海藻を入れた薬湯。
- 小原氏の浴場:北道にあったが、後に経営者が変わる。
- 永楽湯 / 黒潮湯:北鍛冶町にあった「永楽湯」は、昭和8年頃に経営者が変わり、現在は「黒潮湯」として営業。
- 大黒湯:南鍛冶町に新設されたが、経営者が転々とし、現在は廃業。
- 山崎あんま湯:久保里に新設されたが、早くに廃業。
- 養老湯:西南道にあり、上野徳松氏が開設後、経営者が変わる。
- 布袋湯:中川原にあり、明治中期に新設され、後に経営者が変わる。
- 末広湯:南浜町に今井徳松氏が移転して開業。
- 桜湯:浜町の中程に宮井新助氏が経営。
- 太田湯:大小路に新設されたが、間もなく廃業。
- 戎湯:下新町にあり、嘉永年間以前から続く最も古い浴場で、4代にわたって同じ場所で経営されている。
- 大正湯:南栄に堀田安吉氏が開設後、宮井喜市氏に変わり、大正15年の法規改正で他の浴場と会社組織に再編されるも、後に個人経営に戻る。
- 栄湯:大正湯の会社組織が解散後、横矢氏が新設。
- 紀勢湯:道町にあり、後に経営者が変わる。
- 東湯:終戦後に大宮通りに開業したが、水質の問題で5年で廃業。
浴場の歴史と風俗
- 大正15年の法規改正:全国的な法規改正により、湯浅町の9軒の浴場が6ヶ所に整理され、会社組織による経営の合理化が図られた。しかし、後に個人経営に戻る。
- 当時の入浴方法:
- 風呂場は木造で、浴槽は「湯舟」と呼ばれる大きな木の箱。
- 明治初期には男女混浴が厳しく取り締まられ、申し訳程度の仕切り板が設置された。
- 洗い場には滑り止めのための竹製の「簀」が敷かれていた。
- 女性は「糠袋」や「洗い粉」を使い、男性は丁髷を濡らさないように気をつけて入浴した。
- 燃料・用水:燃料は乾燥させた松の木を使い、用水は釣瓶で井戸から汲み上げていた。
- 入浴券:「湯札」と呼ばれる、焼印を押した薄い竹の板が使われた。
- 衛生上の注意:大正4年に湯浅警察署から出された注意書きには、伝染病患者の入浴禁止など、衛生と風紀に関する10の項目が記されている。
- ペスト流行時の対応:明治中期にペストが流行した際には、銭湯の玄関に石炭酸を混入した手洗い・足洗い用の桶を置き、入浴客の消毒を行っていた。
周辺地域の浴場事情
- 広川町:中井氏の「中井湯」、山下氏の「山下湯」、戸田氏の浴場があったが、いずれも廃業した。
- 有田の奥地:金屋町市場に銭湯があり、徳田には水害を乗り越えて現存する「徳金湯」がある。
- 吉備町:庄にあった個人経営の浴場が、地区共同経営の浴場に変わった。
- 田栖川栖原:「栖原温泉」と「七福湯」は、明治から継続して営業している。
料金の変遷
- 明治以前:3〜5文
- 明治中期:5厘
- 明治後期:1銭(長期)
- 大正:1銭5厘(長期)→ 大正14年頃に3銭
- 昭和13年頃:3銭→4銭に認可される。