AIカラー化で蘇った昔『戦前』の風景を、地元ならではの思い込み解説でお届けします。
写真:kitahama.jpg
これは、手が加えられる前の**湯浅の湊(みなと)**です。埋め立ても何も有りません。自然そのままの姿ですね。
**北の浜**から、真ん中に見える**中波止(なかばと)**を挟んで**南の浜**へ。さらに広川を境にして**天州松林(てんすまつばやし)**へと続きます。左手に見える家々は、恐らく当時の**新屋敷**でしょうね。海岸線が今と全く違い、昔の湊の奥行きを感じます。
写真:yuasa1.jpg
**栖原坂(すはらざか)**の上から湯浅の街を捉えた、まさに**大パノラマ**。
正面に見えるのが**北橋**。そして左の深い森が**お宮さん**(神社)の場所です。手前の川、**大仙堀(だいせんぼり)**が干上がって陸みたいに見えますが、まあこれは**ご愛嬌**ということでご容赦を…。さすが**醤油醸造の蔵**がびっしりと並んでおり、この街の歴史的な役割を物語っています。
注釈:湯浅全景
終戦前後の写真と思われる。写真前面の山脈は、東部有田において城ヶ森山、若藪山、 石堂山、水ヶ宝形山、白井山、白馬山など1000メートル内外の高峰が連なり、紀伊水道の海岸に近づくにつれ、長者ヶ峰、小山、鹿ヶ瀬山など500メートル内外の連峰がつづく白馬山脈である。南境にあたり、日高郡と接している。 有田郡は、この白馬山脈と、北境にあたる長峰山脈の間を縦走する有田川の渓谷平野のほとんど全域を占めている。右手は湯浅湾がひろがり、湯浅の浜に波が打ち寄せている。その向こうは広川町の天州松原である。
手前は山田川河口の船止め場である。湯浅の町並が展がっている。
手前の道は、湯浅町の町中から栖原へ越える途中の道であり、黒々と繁る森は栖原越えの山。左手の大きな工場は、食品会社。左上の森は、顕国神社の森である。
写真:niage.jpg
この写真もよく見かけますが、右の建物は当時の**漁協**(漁業協同組合)らしいです。
筆者の記憶では、これによく似た建物が**「カネ七」さんの前**にあったのですが、この写真とは方向が違います。写真の漁協は**別の場所**に有ったのでしょうか??
写真から一目瞭然ですが、この時代、**鉄道が敷設されるまで**の輸送は**海上が主役**だったことがよく解る、私のお気に入りの一枚です。場所から推測したら、**北の恵美須っさん**(恵美須神社)の北側あたりかな??
写真:kenkoku1.jpg, kenkoku2.jpg
これは昔の**顯國神社(けんこくじんじゃ)**です。写真の雰囲気から、長い歴史と人々の信仰の深さが感じられます。
最大のポイントは、二枚目に見える**鳥居の場所が現在と違います**ね。境内の配置が変わるほど、時代は移り変わっているということ。広い**玉砂利**の境内、その奥に鎮座する拝殿の威厳は、今も昔も変わりません。
写真:shirouo.jpg
これは、**広川河口**の春の**風物詩**として知られる**『シロウオ漁』**の様子です。
独特な漁具である**四手網**を使い、川面でシロウオを捕獲する伝統漁法。この風景が見えることで、私たちは春の訪れを感じていたのでしょう。
写真:utapse.jpg
最後は、燃えるような**夕日**に映える**『打瀬船』**の群れです。
**風を利用して網で魚を一網打尽**にするという漁法。「打瀬船」の名が示すように、まさに風を味方につけた漁師たちの知恵が詰まっています。ロマンティックな風景ですが、当時の海の男たちのたくましさも感じられる一枚です。
写真:kitayama.jpg
(原文のままです)
北栄区にある北山から、湯浅町と湯浅湾を 遠望して写したものである。手前に流れてい るのは山田川。湯浅の町中には、何本も大き な煙突が立っている。これは、醤油醸造を営 んでいる家で、一軒一軒大釜を据えて醤油を 煮ていた。湾の左手は広海岸の天州松原、前 面の山は天王山、一番遠い山は明神山である。
写真:tenjin.jpg
『湯浅公園』天神山です。今は無き(汗)・・・・忠魂碑は顯國神社に移転してます。
左手の高台は湯浅公園であるが、今はなくなっている。戦前の湯浅の町並みである。湯浅は有田郡一の市街地であるが、 すでに名産の湯浅醤油の醸造もすたれ、昔、黒々と立ち昇っていた醤油を焚く煙も見えないが、古びた町の家並みは昔をしのばせる。
写真:chukon.jpg
忠魂碑
湯浅市街地の東方にある天神山という小さな丘に、古墳があり、天神神社が鎮座していたが、顕国神社に合祀された。その後、町の公園になり、丘の上に忠魂碑が建立された。 写真は昭和一四年五月一日、招魂祭の当日のもの。昭和三五年、忠魂碑は顕国神社に移され、山の土は採取されて、現在は全部宅地になっている。