江戸出版界の巨頭:須原屋茂兵衛とその一統の軌跡

I. 序論:江戸出版界における須原屋茂兵衛の立ち位置

江戸時代、日本の出版文化は飛躍的な発展を遂げ、その中心地は京都や大阪から江戸へと大きく移行しました。この変革期において、特に重要な役割を担ったのが、書物問屋「須原屋茂兵衛」です。須原屋茂兵衛は、単なる書店の主人に留まらず、江戸出版界の構造を形成し、知識の流通を牽引した稀有な存在として歴史に名を刻んでいます。

須原屋茂兵衛は、江戸時代前期の万治年間(1658-1661年)に創業した、江戸でも有数の老舗書肆(出版社兼書店)です。その屋号は、初代・北畠宗元の出身地である紀伊国有田郡栖原村(現在の和歌山県有田郡湯浅町栖原)に由来し、家号は「千鐘房」と称しました。

この創業時期は、江戸の出版文化が京都や大阪に代わって中心となる転換期に位置しており、須原屋茂兵衛は江戸出版文化の黎明期からその発展を牽引したパイオニア的存在であったと言えます。

II. 出自、出身地、そして生い立ち

紀伊国有田郡栖原村の出自と北畠氏の系譜

初代須原屋茂兵衛、本名を北畠宗元(きたばたけ そうげん)と称する人物の出自は、紀伊国有田郡栖原村(現在の和歌山県有田郡湯浅町栖原)にあります。彼の屋号である「須原屋」は、この出身地に由来しており、家号は「千鐘房(せんしょうぼう)」と名乗っていました。

須原屋の苗字である北圃(北畠)氏は、元々、河内国高安郡垣内村(現在の大阪府八尾市垣内)の領主であった垣内氏に仕えていました。その後、垣内氏と共に栖原村に移住し、帰農したと伝えられています。この垣内氏との縁は江戸時代に入っても深く続き、須原屋の四代目と五代目は垣内氏の出身であったとされています。

須原屋茂兵衛の出自は、単なる商家の成り立ちを超え、武家との深い繋がりと地方からの移住という背景を持つことが明らかになりました。屋号の由来は出身地という伝統的な命名法に従いつつも、その後の事業展開に影響を与えた可能性があります。

初代・北畠宗元の江戸進出と創業

初代須原屋茂兵衛(北畠宗元)は、万治年間(1658-1661年)に紀伊国有田郡栖原村から江戸に上り、日本橋南に本屋(書肆)を開業したと伝えられています。茂兵衛家は須原屋一門の総本家として、その後明治37年まで9代にわたって事業を継続しました。明治期には松本氏を称したとされています。

万治年間(1658-1661年):初代・北畠宗元が江戸日本橋南に書肆を開業
明治37年(1904年):須原屋茂兵衛家が事業を終えるまで9代継続

III. 書物問屋としての商売の確立と特徴

日本橋における書肆開業と老舗としての地位

初代須原屋茂兵衛は、江戸の中心地である日本橋南に本屋を開業しました。須原屋は、江戸前期の万治年間(1658-1661年)に創業したとされ、書肆としては江戸でも有数の老舗としての地位を確立しました。茂兵衛家は、その後も須原屋一門の総本家として、明治37年まで9代にわたってその事業を継続しました。

「書物問屋」としての専門性:「物の本」の取り扱い

江戸の本屋は、取り扱う本の種類によって「書物問屋」と「地本問屋」に明確に分けられていました。須原屋茂兵衛は「書物問屋」の代表的な存在であり、その専門性は、儒学書、仏教関係の書物、歴史書、医学書など、いわゆる「お堅い内容の本」(「物の本」)を主に扱っていた点にありました。

文政七年(1824年)に刊行された「江戸買物独案内」には、須原屋茂兵衛が唐本、和本、仏書、石刻を扱っていることが明記されており、その取り扱いジャンルの広さと専門性が示されています。

幕府御用書肆としての役割と「武鑑」の独占出版

須原屋茂兵衛は、単なる商業的な書肆であるだけでなく、幕府の御用書肆という重要な役割を担っていました。この地位は、彼が「武鑑」をほぼ独占的に出版できた大きな要因です。「武鑑」は、江戸時代に出版された大名や江戸幕府役人の氏名、石高、俸給、家紋などを記した年鑑形式の紳士録であり、江戸時代の出版物の中で一番のベストセラーでした。

須原屋茂兵衛の老舗としての歴史と幕府御用書肆という特権的地位が、「武鑑」の独占出版という経営戦略を可能にし、それが彼の業界内での圧倒的な優位性を確立する直接的な原因となりました。

IV. 「須原屋一統」の繁栄と革新

のれん分けによる須原屋一統の拡大

須原屋茂兵衛の事業は、単一の店舗に留まらず、「のれん分け」という形で「須原屋一統」として拡大しました。須原屋茂兵衛は総本家として、須原屋伊八、須原屋市兵衛、須原屋佐助など、多くの分家を輩出し、須原屋一統として江戸出版業界に強大な影響力を持つに至りました。

文化14年(1817年)には、江戸書物屋仲間63軒中12軒を須原屋一門が占め、江戸出版界の刊行物の約3割に達するまでに成長しました。この数字は、須原屋一統が当時の出版業界において、いかに支配的な地位を築いていたかを明確に示しています。

須原屋市兵衛の革新的な出版活動

須原屋一統の中でも、特に革新的な出版活動で知られるのが、須原屋市兵衛です。彼は須原屋茂兵衛ののれん分け店の一つであり、号を申椒堂(しんしょうどう)と称しました。宝暦12年(1762年)に建部綾足著『寒葉斎画譜』の刊行から活動を開始し、平賀源内、森島中良、杉田玄白ら蘭学者の版元として、当時としては革新的な書物を多く手がけたことで知られています。

『解体新書』出版の意義と当時の社会への影響

須原屋市兵衛の最も特筆すべき功績の一つは、安永3年(1774年)に杉田玄白の『解体新書』を刊行したことです。当時、このような西洋医学書の内容は幕府の禁忌に触れ、罪に問われる危険性があったにもかかわらず、日本の将来のために出版を決断した功績は高く評価されています。

『解体新書』は、オランダ語の原典を底本とし、日本で初めて人体解剖学を体系的に紹介した西洋科学書の本格的な翻訳書であり、蘭学の普及だけでなく、日本における近代科学の礎を築いた画期的な作品です。

V. 出版業界における地位と他者との対比

書物問屋と地本問屋の構造と役割

江戸の出版業界は、主に「書物問屋」と「地本問屋」という明確な分業体制によって成り立っていました。須原屋茂兵衛が代表する「書物問屋」は、儒学書、仏教書、歴史書、医学書など、いわゆる「お堅い内容の本」(「物の本」)を扱い、知識人向けの正統派の出版人でした。これに対し、「地本問屋」は、草双紙、絵草子、洒落本、読本、錦絵、浮絵、一枚摺、吉原細見など、一般庶民も楽しめるエンターテインメント性のあるジャンルの本を扱いました。

須原屋茂兵衛と蔦屋重三郎の対比

須原屋茂兵衛と蔦屋重三郎は、江戸出版界の二大巨頭として対照的な存在でした。当時の人々の認識を端的に表す「吉原は重三 茂兵衛は丸の内」という川柳がその違いを象徴しています。

この川柳が示すように、須原屋茂兵衛は「武鑑」に象徴される丸の内(幕府や武家屋敷が集中する地域)を主なテリトリーとしていると認識されていました。一方、蔦屋重三郎は吉原(遊廓)をテリトリーにしていると思われていました。

VII. 結論

須原屋茂兵衛は、江戸時代における出版文化の発展において、極めて重要な役割を果たした人物であり、その事業は単なる商業的成功に留まらず、社会の知的基盤形成に多大な貢献をしました。

須原屋茂兵衛とその一統は、単なる商業的な成功者としてだけでなく、江戸時代の知識流通のパイオニアであり、日本の知的発展に不可欠な基盤を築いた文化の担い手として、その軌跡は現代にまで受け継がれています。